Fisher

いろんな人がいて、いろんな本を読んでいる。コーヒーと夜の散歩と伊藤計劃がだいすきな25才が、 あんな本や、こんな本を、紹介します。

MENU

本は待ってる

  

本の話をするときに、まず、避けて通れないのが、「本ってなあに?」という問です。

本とはなにか。小説から、医学書、図鑑、絵本やビジネス書まで、形も内容も、さまざまですよね。

どの本にも共通していることといえば、題名があること、ページがあること、それから、「だれかが書いた」ということ。

 

いろんな本があって、いろんな人が読んでいる。それってすごくわくわくする。

サイドバーに書いてあることばです。ほんとうにそうだなあ、と見るたびに思っています。

だけど、じつは、わたしはむかし、本が読めないひとでした。

 

これからすこしだけ、わたしと本の話をさせてください。

 

わたしは本が読めなかった

 小学校の五年生だったでしょうか。国語の教科書に、宮沢賢治の「注文の多い料理店」がありました。森深くにある、あやしいお店に迷い込んだふたりの猟師が、知らず知らずのうちに、「料理」にされてしまう、というお話です。

「この物語によって作者が伝えたかったことはなんでしょうか」、と先生は問いかけました。あたまのいい子も、あんまりぱっとしない子も、「きっとこういうことを言いたかったんだよ」、先生は「そうですね、そうかもしれませんね」、鷹揚に、みんなの意見を受け入れました。

わたしだけ、作者が伝えたかったことがわかりませんでした。だって、おかしな話なのです。猟をするような森にレストランなどあるはずがないですし、狐が化けたにしては、ねたばらしもない。猟師たちは助かるけれど、もしもこれが夢なら、いつ目覚めたってわかるの? まだ夢を見ているのかもしれないじゃない。

このときの「あるはずの答がわからない」経験は、わたしに読書に対する苦手意識をうえつけました。反対に言えば、それまでは、なにも考えずにいわばこころで読めていた本が、答を隠した方程式のような、あたたかみが感じられにくいものになってしまったのです。

不得意を得意にするひみつの魔法

いまも、正直なところ、本を読むことは苦手です。たぶん、この謎解きには、個人の得意不得意があって、わたしは苦手なのでしょう。隠喩を探して読むよりも、ストーリーを楽しむだけでじゅうぶんだ、と思うときもあります。

 

ほんのすこしの適応力を、無理むっちゃく引き伸ばして、わたしは「感想文の得意な子」になりました。本から、物語から、ではなく、それらを問いとした教育から、ちょくせつ答を見つけることを覚えたのです。

人や、人生に、大切なことはあんまり多くなくて、少ないからこそ大切な(いのちは大事、友だちは傷つけちゃいけない、遅刻厳禁)といったことを、わたしは繰り返し、感想文に書きました。

あたりさわりのない文章を書く行為に、わたしはちょっとした楽しみさえ見い出していたのだとおもいます。まほうつかいにでもなったみたいな気がして、道具になったことばを、好きなように使ってしまっていたのです。

 

ですから、ある年の夏、わたしが思い立った冒険は、なぜそんなことをしたのか、いま振り返ってみても不可解なもの。だからこそ、とくべつなものにもなったのですが。

f:id:ritueritu:20170728203829j:plain

せんせいが見つけたわたし

とうてい、読書感想文向きではない本に手を出し、その本の感想を好き放題に書く。わたしが冒したきけんな遊びに、気がついたのは、ひとりの先生でした。

先生は、わたしのはちゃめちゃな感想文を、「学校代表に選ぶ」と言いました。目立つ生徒ではありませんでしたから、先生から声を掛けられたことも、ましてや名前さえ呼ばれたこともなかったわたしは、まったく、気を失うほどおどろいたものです。これを? とおもいました。この、「ちゃんとした答は見つかりませんでした」って書いた感想文を推薦してくれるの?

結果としては、全国の感想文たちには「箸にも棒にも掛からぬ」でしたが、このとき、先生がわたしを見つけて、わたしの文章を推敲してくれて、「提出するぞ、いいな」、と背中を押してくれた経験は忘れられないものになりました。

いまでも、ときどき思い出します。わたしが生まれて初めて、こころのままに書いた文章は、そのようにして受け入れられたのです。

本とはいったい何なのか

本とは、つまり、本でしかありません。化けた狐でも、魔法陣でもありません。ことばがあって、ストーリーがあって、わたしに語り掛けてくる作者であって、それ以上ではないのです。

とくべつなものじゃない。本こそ、ありふれたもの。さりげなくそこにあって、見過ごしても、かまわないもの。

答を見つけなきゃいけない、意味を捉えなければいけない、と気負いすぎると、読書はときどき苦しくなってしまうでしょう。あなたを納得させる答は、そうそう簡単には見つからないものですから。そして世界は、ことばで読み解くには、あまりにふくざつなのです。

じゃあ本はくだらないの? いらないの? そうではありません。

大切なのは、「楽しむぞ」、という気持。「おもしろいな、すてきだな」とおもったり、おもわなくてさえ、いいのです。ことばによる感想をくっつけないで、本は本として、棚にしまっていても、それはおかしなことじゃない。

こわがらないでいい

いちど「読めない」を経験してしまうと、もうにどと本が読めないという気になってしまいがちです。わたしは本が苦手なのだ。わたしが読めるような本は、このあたりにはないのだ、と。

しんぱいはしてもいい。けれど、こわがらないで。

そうしたいな、とあなたがおもったときでいいから、そのときは、どんな本でも読んでみたらいいとわたしはおもいます。

その本は、難しいことばで綴られているかもしれません。

その本は、絵ばっかりで、カラフルで、目がちかちか、疲れてしまうかもしれません。

見つけたい答があって読むときもあるでしょう。「きっとこの本にその答えはある」そうおもっていたのに、見つからないときも、いえ、ずっと見つからないかもしれない。

 

だけどね。

いろんな本があって、いろんな人が読んでいるのです。

あなたの知らない本があって、あなたの知らない人が読んでいる。あなたには見つけられなかった答を見つけている。

だからわたしたちは、本の話をしたい。

自分ひとりでは、本一冊と向き合うだけでは得られないものを、分け合うために。

本は待っている

わたしが、ほんとうは見つけてほしかったように、本も、あなたを待っています。見つけて、読んで、なにかを感じてほしいとおもっている、きっと。

だから、もしも、時間があればでいい。

本を読みませんか。

読んだ本の話を、わたしに聞かせてくれませんか。

 

わたしは、「ただの本」から、世界を読み解く一文を探しています。ないだろうな、っておもいながらも、探しています。

見つかったら、そのときは、あなたと分け合えたらいいな、っておもいながら。

Fisher

わたしの名前はぴかぴか。

ブログの名前はFisher。

本の話と、本にまつわる話をしたいとおもっています。どうぞ、よろしく!

 

その本の名前は

あ、そうそう。

わたしを変えたその本の名前ですが、「ソラリススタニスワフ・レム著のSF小説です。

万人に勧められる本ではないですが、いまでも、わたしのオールタイムベスト10に入っています。とくべつな一冊です。

読んでみませんか? 

広告を非表示にする