Fisher

いろんな人がいて、いろんな本を読んでいる。コーヒーと夜の散歩と伊藤計劃がだいすきな25才が、 あんな本や、こんな本を、紹介します。

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邂逅と祝福

想像力の話と、自殺に至る思考については、同じ文面では語れない。考え抜いた末の最後の晩餐ではなく、あっと気付く、「これが最後なんだな」。とても乱暴な言い方にはなるけれど、激しい自殺と、静かな自殺があるのではないだろうか。

http://aniram-czech.hatenablog.com/entry/2017/08/10/220000

 

ブックマークを見ていると、想像力(解釈)についての批判的な意見が目立つ。さきに、肯定的な意見について考えておくと、「想像力があなたを救うかもしれない」という示唆に同意する、「救われる」ひとがいるということだろう。実際、「ほかに手はない」と思い詰めているひとには、「逃げてもいい」とか、「ぜんぶ捨てて、変わってごらん」、これらの言葉は効きうる。しかしそこには大前提があって、「こう言われたい」と志願者が望んでいる言葉であらねばならない。逃げたいひとには逃げるように促したい。変わりたいひとには変わるように、がんばりたいひとには応援を、見守ってほしいひとには目を、立ち上がる杖が必要なひとにはこの手を、差し伸べられるかもしれない。そうすることでなにかが変わるかもしれない。想像力はここで、志願者側ではなく、傍観者の方に必要だと言えるだろう。想像力の話をするならば、だが。

批判的な意見のことを考えている。意見についての同意、拒否ではなく、「想像力を語る」ことについてのパラドックスだ。想像力がない、と果たしてだれならば、だれに、言えるだろう。自分の考えていることをそっくりそのまま文章に起こすことがもしも可能だとして、他人の文章から他人の思考をそっくりそのまま私たちが読み取ることはどうだろう。できると言えば想像力の欠如であり、できないと言っても同じ。想像力には感触がなく、それは感情や文面以上にあやふやな存在で、そもそも形(行動)に現れるものだと信頼することも難しい。欠如以前にその存在自体がわからないものなのだ。
「現実」についても、同じことが言えるとおもっている。私にあるこの現実は私にしかない。究極的には、この世界には私しかおらず、夢落ちする覚醒がいつまでも来ない、全と一とゼロが同時に同一である状態がつづく、それが私の定義する現実である。肉体と精神があるという感覚も現実の中でのみ生じるものであり、実際(という言い方はできないのだが)には私の肉体も精神もどこかにぽつんとあるのではなく、それがすべてでしかない領域でそうあるだけなのだ。だが、ここまで思い切らずとも、ひとは自分の目でしか見られず、耳でしか、口で、以下同であるから、「私が考えている(知っている・見ている)、いまここにある現実」を「私」以外の存在に同期させることは不可能だ。どんなに懇切丁寧に、まごころこめて、命を懸けて、見せられ・語られたことであっても、ひとつの現実を私とあなた(複数の人間/意識)が同時に同一に持つことはできない。ここに絶望をかんじるひとがいて、彼らはだからこそ、自分の現実に必要な現実を、あなたからもたらされたいと願ってしまう。絶望するのではなく、かんじる時点ではこのようなSOSが小さくてもたしかにあって、それを見逃さなければ、実際(と言おう)なにかが変わることもあるだろう。
話を戻すが、自分の現実を他人の現実を同時に同一に持つことができないからこそ、私たちには「共感」という行為が在り得る。同じものになれないからこそ、似ていると共鳴ができ、知っていると安心し、わかっているとがっかりする。すべては勘違いとさえ言えるかもしれないが、それは淋しいことだろうか、悲しい、やるせないことか。私は、すてきなことだとおもう。ぜんぜんちがうのに一緒だとおもったり、分かり合えてなどいないのに許し合えたと考えたり、ふたりっきりの現実をふたりじめしているのだ、それが愛なのだ、なんて言ってしまうこと、わるいことでしょうか。そうでもなくないかな、すてきは大袈裟でも、「仕方ないなあ」と笑ってしまえることだと私はおもっています。そうして、この現実を生きている。夢落ちを待たないで。